ここまでの講義で、四聖諦や諸行無常、諸法非我・無我、一切行苦・皆苦など根本教理や慈悲(四無量心)について学んできましたが、これらを「知る」ことはどんな価値があるでしょう。
物知りになること、賢い人だと自分を思う、人から思われるためでしょうか。そうではないですね。
ブッダが、通常に知覚できないことは避けて近くできることについて取り上げていたのは、知識以上に実利、実際の効用を大事にしていたからです。
本当に苦悩から解放され福楽になるために
日常の暮らしは、さまざまなこと・状況が次々次々にあり、それに次々次々に対処していくことになります。ですから知識として知っているレベルだと、実際的には日常の暮らしにきちんと役立つレベルとしては足りません。
仏教に限らず、これまで人としてのありかた・生きかたなどについて、いろいろな本などを読んだり話を聞いて、時には感心して、そうしようと思っても、そうはできないことが多い、ほとんどできずという経験はないでしょうか。
ブッダは、人が本当に苦悩から解放されて福楽に暮らせるようになるにはどうしたらよいかを真摯に求めて、その理論と方法を覚り、人々にそうなってほしいと生涯説き続けました。
知識を越えて悟り・智慧に
仏教は「知識」として知ることが一般に主となりがちですが、仏教で「知る」は得心する、悟る、智慧になるという意味合いで使われることがあります。
そして、得心している、悟っている、智慧になっているとは、知識として知り理解しているレベルでなく、日常のいつでも自然体で、そのことが当たり前のこととして自分のものに本当になっている状態になっていて活かせることを表わします。
ブッダが望んだのはこうなってほしいということです。
実際にはできていないのに勘違い
得心している、悟っている、智慧になっているようになっていないと、実際にはできていない・していないのにできている・していると勘違いや慢心することにもなります。
例えば、仏教に親しんでいて慈悲が大事とも発言していながら、SNSなどで自分の意に合わないことを言った人に、その思いを持ち続けその人への対応をずっとその思いに従ったように繰り返しているのを見聞きしますが、慈悲は四無量心、どんなときも誰も分けへだてなく平等にです。
また、全ては諸行無常、諸法非我・無我ですから、いつも今ここでのことは今ここでのことであって、過ぎたことを引きずり続けることはしないものです。さらには自分の心に現れる快・不快にとらわれなくなるのも大事なことです。
そして、人の意に合わない行為・反論や批判などは悪行為、善友ではないとして、そのようにするのを正当化しているのも見聞きしますが、それは単に自分の好き嫌いでそうしていることになります。
知識と八正道・瞑想の実践で
ブッダの道は、知識として知るだけでなく、八正道・瞑想を実践することによって、体験による自己変容・自己浄化も起こして、その知識を自分の身につけるもの、智慧ともするものです。
四聖諦や三相の諸行無常、諸法非我・無我、一切行苦・皆苦などの根本教理や慈悲(四無量心)を、得心、悟り、智慧としても持っているレベルを目指しましょう。
そうして日常のいつでも平安でいられ、本当の苦悩から解放されて福楽に暮らす人になりましょう。