参考

仏教の根本の教理‐非我・無我

これまでのページで学んだように、八正道の「正見」の正しい見解や三相の中に「諸法非我・無我」があり、前ページで学んだように手放される見解のうちの二つが「我」に関するものです。ですから非我・無我の理解は重要です。

「我」とは?

例えば、諸法非我・無我が説明されるとき「我」とは何を指しているのかが明確にされていない説明が少なくありません。そして一般的な「自我」とだけ思って説明されていることが多いようですが、仏教の「我」はそれにとどまりません。

また「無我」を「我を無くして無我」のように説いているのも見聞きしますが、それは諸法非我・無我についての根本的な勘違いになります。

諸法非我・無我、非我・無我はブッダ亡き後、部派仏教時代以降にさまざまに解釈されて伝われるようになりましたが、「我」とはもともとは「個我=アートマン」についてでした。

不滅のアートマン=個我

バラモン教では個人の不滅な本体としてアートマン=個我の存在を信じ、アートマンを輪廻の主体と考えます。心・意識の我「自我」とは別にこれがあると考えます。

また、アートマンは個我であり大我=宇宙の中心原理=ブラフマン(梵)でもあるとされ、ブラフマンとアートマンが一体になることを求めたり、同一である=梵我一如とされたりします。

バラモン教、アートマンとしてでなくても、霊魂や魂と言われるものに近い考えかたですし、このような存在があり本来の自己、本質的な自己等と考えることがあるものです。

なお、アートマンはもともとは呼吸を意味して、それが命、命の働きのもとであることから、自己、霊魂や本性、自己の根本、本来の自己などを表す言葉になりました。

自我は、無常な自我意識

私たちは固定的に「自分」「私」がいると思いがちですが、そう思う自我というものは、仏教の論説を待つまでもなく固定的なもの、実体のあるものではありません。

心理学を学んだ人は分かると思いますが、自我は「自我意識(自己意識)」であり変化する意識です。恒久的に変わらないものではなく場面場面で変わるもの。縁起のもので無常なものです。

なお、自己を表わすアートマンが中国で「我」と訳され、日本では「我」がネガティブな意味合いの言葉として使われることがあり、そのために非我や無我というときの「我」が、利己的な自我ととらえられるようにもなったという面があります。

ブッダは「我」について

ブッダは、通常に知覚できることに限り理論・解釈を説き、苦悩からの解放、問題解決を図ることを重視して、通常に知覚できないことは理論・解釈は述べませんでした。しかし、ブッタが「我」というときはアートマンのことでした。

例えば、通常に知覚できる人間の肉体と精神を五蘊として分けて理解してとらえる理論や、瞑想でその力を持つことを説きましたが、五人の比丘に説いた初転宝輪に次のようにあります。

五蘊(色受想行識)は前ページで学びましたが

サンユッタ・ニカーヤ

ブッダ「修行僧らよ。色(肉体など物質的な形)は我(アートマン)ならざるものである」

ブッダ「もしもこの色が我であるならば、この色(肉体)は病にかかることはないであろう。またこの色について『わが色(肉体)はこのようであれ』『わが色(肉体)はこうあることがないように』となし得るだろう。しかるに色は我ならざるものであるがゆえに、色(肉体)は病にかかり、またこの色について『わが色(肉体)はこのようであれ』『わが色(肉体)はこうあることがないように』となすことができないのである」

ブッダ「修行僧らよ。汝らはどのように考えるか。色は常住であるか、無常であるか」

修行僧「色は無常であります」

ブッダ「では無常なるものは苦か、楽か」

修行僧「苦であります」

ブッダ「では無常であり苦であって壊滅する本性のあるものを、どうして『これがわがものである』『これはわれである』『これはわが我(アートマン)である』とみなしてよいだろうか」

ブッダはアートマンは否定せず、色(肉体)を「これがわがものである」「これはわれである」「これはわが我(アートマン)である」とみなすのを否定。この会話はこのあと五蘊の残り「受想行識」についても同様に説いていて、ブッダは五蘊は我(アートマン)に非ず、非我としていました。

根本仏教は非我が主流

五蘊、物事は縁起によって成り立ち存在し、無常であり変化し続ける。だから「わがもの」「われ」などと思って我執(執着)してはならず、我執を打ち破って、しなくなって真実の我=アートマン、真実の自己を実現すべきとして「我でない=非我」が主張されました。

テーラーガーター1160

五蘊をアートマンとは異なった他のものであると見て、アートマンであると見ない人々は、微妙なる真理に通達する‐‐毛の尖端を矢で射るように

サンユッタ・ニカーヤ

色(肉体など物質的な形)は無常である。無常であるものは苦しみである。苦しみであるものは非我である。非我であるものはわがものではない。これはわれではない。これはわがアートマンではない。正しい智慧をもってこの道理を如実に観ずべし。

そして、「仏教の歴史」のページで学びましたが、ブッダ亡き後に教団は分裂し部派仏教時代になり伝えられる内容は変わるようになり、非我から無我が主流になりました。そして、今は霊魂、魂の存在は上座部仏教は否定、日本の仏教でも否定されることがあります。

部派仏教時代以降は無我が主流

部派仏教時代になると、五蘊は非我「我に非ず」が無我「我がない」という論説になるようになり、例えば「人無我」「法無我」の2つが説かれるようになりました。

人無我は、人間存在は五蘊が縁起で仮に和合した無常なものだから、恒常不滅な自我の存在、実体的な生命の主体というようなものは無い。

法無我は、全てのものは縁起で仮に成り立っている無常なものだから、そのものに恒常不滅な本体、本来的に固有な独自の本性(本自性)はないということ。

そして、部派仏教の中で有力だった説一切有部はこの説とは違い、人の主体的な我(アートマン)は無いが、現象世界を構成する要素(法、ダルマ)は三世に渡って実在するとしていました。これを批判したのが大乗仏教の祖とも言われる龍樹で、龍樹は無我を「空」と表現しました。

また、上座部仏教も説一切有部とは異なる人無我で法無我、諸法無我説をとるようになりました。

無我は自我を無くしてではなく

無我を「自我」を無くしてなるというように解釈していることがありますが、それはここまでの説明でわかると思いますが違います。

自我、エゴを小さく無くすことは確かに大事です。本来の自分・自己に近づくことですから取組むべきことです。でも仏教の諸法非我・無我は、自我を無くすというより、自我という固定的・実体はそもそも無いという道理で、無いものにとらわれない・執着しない、束縛されないということです。

仏教の自己浄化の道、清浄行も、いわゆる自我、エゴが小さくなるものですが、自我も含めて「わがもの」「われ」などと思って我執(執着)してはならず、我執を打ち破って、という点が大事です。

我の有無論より大切なのは

私が残念なのは、同じ仏教内でもありますが霊魂や魂があるか無いかで対立のようになることです。

後のページで学べますが、自分とは異なる論を認めない、見下すことはブッダは良いとはなさっていませんでした。また、どんな論、道理も修行して自ら体験的に悟ることを重視、それで得られること、洞察、悟り・覚りが大事とされていました。

そして、サンユッタ・ニカーヤには、ブッダはヴァッチャゴッタの質問「我はあるか? 我はないのか?」のどちらにも答えなかった。この「我」もアートマンのことで、ブッダは答えなかった理由を、あると答えれば常住論者に、ないと答えれば断滅論者に同ずることになるからともあります。

まず個人個人、アートマン、霊魂、魂があるか・ないかの価値観が違う、それはそれでよし。仏道、瞑想を含んで八正道を取組んで、個々にどうなるかが大事です。

人間は経験による脳の記憶・回路によって自我意識を持ち、それは不健全な場合もあり、カウンセリングなどでもそれを健全にしようとします。仏教はこのことを八正道、瞑想によって変化・浄化させたり、無常・実体はないと執着しないことを悟り・智慧として平常に持つことを重視します。

五蘊、物事は縁起によって成り立ち存在し無常であり変化し続ける、だから「わがもの」「われ」などと思って我執(執着)しない、我執を打ち破ることが大切です。

「気づき」と「我」

八正道の戒を心がけ日常のありかたを清浄にして、定の瞑想の修練を繰り返していきます。このプログラムではステップ2から戒を心がけることをはじめ、ステップ3からサマタ瞑想に取組み始めます。このステップ4からはヴィパッサナー瞑想に取組み始めます。

ヴィパッサナー瞑想は気づきの瞑想ですが、ヴィパッサナー瞑想に取組みレベルを高めていくと、気づきの力・習性はどんどんと高まり、瞬間瞬間の自分に詳細に奥深く気づくようになり、さまざまな体験も生じて「我」を悟るときも現れます。

そして、前のページの「正しい見解、手放すべき見解」にもありますが、五蘊を固定的・実体的な我、自分とみなす「我見」、物事を自分の所有と思う「我所見」を合わせた有身見が手放される・無くなることになります。

無我の境地

ヴィパッサナー瞑想に取組み続けていると、もともと非我・無我であるということを体験として知るときが来ます。

私の場合には、だんだんと取組む瞑想のレベルを上げていって、ミャンマーでの修行中、このプログラムのステップ7で学べるヴィパッサナー瞑想の本格版の歩く瞑想のレベル3をしていたときに、長老に報告すると「それは無我の境地にいたのだよ」と指摘していただけた状態を体験しました。

私は私の身体が消えて歩いていました。その体験をした瞬間から有見身が無くなりました。「わがもの」「われ」などと思うこと、我執(執着)することが自然体で常に無いようになりました。

重要な「無所有」の意識

仏教は自己浄化の道、清浄行で、無知・過剰な煩悩、執着を少なくする、無くしていく道ですが、そのために所有の思いを克服することが説かれています。

スッタニパータ805

人々は「わがものである」という執着をしたもののために悲しむ。所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである

スッタニパータ806

人が「これはわがものである」と考えるもの‐それはその人の死によって失われる。われに従う人は、賢明にこの理を知って、わがものという観念に屈してはならない

スッタニパータ809

わがものとして執着して貪り求める人々は、愁いと悲しみとものおしみを捨てることがない。それゆえにもろもろの聖者は、所有を捨てて行なって安穏を見たのである

所有は「わがもの」、物事にわがものという思いが強ければ煩悩・執着は強くなります。「われ」と自分を思っているのも自分像の所有であり、その思いが強くなれば自分への煩悩・執着は強くなります。これらが苦しみを生み出します。ですから無所有をよしとします。

スッタニパータ861

かれは世間においてわがものという所有がない。また無所有を嘆くこともない。かれは欲望にうながされてもろもろの事物におもむくこともない。かれは実に平安なものと呼ばれる

スッタニパータ951

「これはわがものである」また「これは他人のものである」という思いが何も存在しない人‐かれはこのようなわがものという観念が存しないから、「われになし」といって悲しむことがない

自己を大切にせよとブッダ

アートマンは自己も表わすと先に説明しました。ブッダは五蘊は「我(アートマン)」ではないとしていました。いっぽうで「自己」についてたびたび語っています。

「世俗なことより自己を探し求めよ」と説法した話が律蔵にありますが、そのほか例えば

サンユッタ・ニカーヤ

愚かで智慧のない人は自己に対して仇敵のように振る舞う

アングッタラ・ニカーヤ

他の自己を護る人は他の自己をも護る。それゆえに自己を護れかし、しからば、かれはつねに損ぜられることはなく、賢者である

スッタニパータ216

自己を制して悪をなさず、若いときでも、中年でも、聖者は自己を制している(後略)

ダンマパダ103

戦場において百万人に勝つよりも、ただ一つの自己に克つ者こそ、実に最上の勝利者である

ダンマパダ160

自己こそ自分の主である。他人がどうして主であろうか。自己をよくととのえたならば得難き主を得る

仏教は自己を護り、整え高めよ。

ちなみに、キリスト教は霊、魂を認め、永遠の命ということがベースですが、例えば次のような聖句があります。

新約聖書、ローマの信徒への手紙8章5、6

肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。

肉に従ってとは自我に従って欲のままで、霊に従ってとは永遠の命としてふさわしく。