ブッダが最初に説いた説法を「初転宝輪(しょてんほうりん)」と言います。
ブッダが最初に説いたこと
ブッダが覚りを開いて最初に説法した相手は、苦行のときに同伴していた5人の沙門にでした。
5人は、ブッダが苦行をやめたときブッダが堕落したと離れていきましたが、ブッダはそうしました。
ブッダはまず、苦しみから解放されて安楽に生きられるようになる方法、覚りに到達する方法は「中道」であると説きます。
「中道」を説く
当時、「苦行という方法」と「快楽主義のような方法」を説く者がいましたが、ブッダは尊い道を求める人のすることは、そのいずれでもない中道だと説きました。
サンユッタ・ニカーヤ(『バラモン教典、原始仏典』長尾雅人編集)に次のように書かれています。
第一にさまざまな対象に向かって愛欲快楽を追い求めるということ、これは低劣で、卑しく、世俗の者のしわざであり、とうてい道を求める人のすることではなく、真の目的にかなわない。
また、第二には自ら肉体的な疲労消耗を追い求めるということ、これは苦しく、とうとい道を求める人のすることではなく、真の目的にかなわない。
比丘たち、如来はそれらの両極端をさけた中道をはっきりとさとった。これは、人の眼を開き、理解を生じさせ、心の静けさ・すぐれた智慧・正しい悟り・涅槃のために役立つものである。
そして、次に中道の道、「方法」とは何かを説きます。それは八正道です。
「八正道(はっしょうどう)」を説く
比丘たち、では如来がはっきりさとったところの、人の眼を開き、理解を生じさせ、心の静けさ・すぐれた智慧・正しい悟り・涅槃のために役立つ中道とは何か。
それは八つの項目から成るとうとい道『八正道』(または八支聖道ともいう)である。
続いて
「四聖諦(ししょうたい)」を説く
ブッダは八正道を含んでいる理論・真理の「四聖諦(または四諦という)」を説きました。
四聖諦は、この後のページで詳しく学べます。
「非我(無我)」を説く
サンユッタ・ニカーヤには非我(無我)を説いたとも記されています。
色(物質的なかたち)は我(アートマン)ならざるものである。
もしもこの色が我であるならば、この色(肉体)は病にかかることはないであろう。また色について「わが色(肉体)はこのようであれ」「わが色(肉体)はこのあることがないように」となし得るだろう。
しかるに色は我ならざるものであるがゆえに、色(肉体)は病にかかり、また色について「わが色(肉体)はこのようであれ、わが色(肉体)はこうであることがないように」となすことができないのである。
非我(無我)も、この後のページて詳しく学べます。
ブッダの覚ったこと
では、ブッダは何をいったい覚ったのか。
もちろん初転宝輪の内容もあったわけですが、いくつかの説があります。
「縁起」を覚った
最もそうであろうと言われているのは縁起の道理です。
サンユッタ・ニカーヤに次のように記されています。
わたしがさとり得たこの法は、深遠で、理解しがたくさとりがたい。静寂であり、卓越していて思考の領域を越える。微妙であってただ賢者のみよくそれを知ることができる。
ところが世の人々は五つの感覚器官の対象を楽しみとし、それらを悦び、それらに気持ちを高ぶらせている。それらを楽しみとし、それらを悦び、それらに気持ちを高ぶらせている人々にとって、実に、この道理、すなわちこれを条件としてかれがあるという縁起の道理は理解しがたい。
また、すべての存在のしずまること、すべての執着を捨てること、渇欲をなくすこと、欲情を離れること、煩悩を消滅すること、それがすなわち涅槃である、というこの道理も理解しがたい。
縁起も、この後のページで詳しく学べます。
その他
サンユッタ・ニカーヤには、六根(六処ともいう)と書かれているところもあります。