業(ごう)は前のページの講義で学んだ「縁起」の過程の一部です。
業の思想は、仏教以前から聖典ヴェーダに基づくバラモン教にあり、仏教やジャイナ教、ヒンドゥー教などインド発祥の宗教において生まれ変わり=輪廻思想と強く結びつく概念です。
輪廻思想では、人間はこの世の生を終えた後も一切が無になるのではなく、この世で行った行為=業(カルマとも言う)が原因となって次の世の輪廻の運命が決まります。業=カルマが「因」となり次の世で「果」を結びます。
そして、悲惨な状態に輪廻することを避けたい、限りなく生と死を繰り返す輪廻の生存を「苦」とし、輪廻からの解放されて二度と再生を繰り返すことがなくなることを最高の理想とし、輪廻の束縛から抜け出す道を求めます。輪廻の束縛からの解放は解脱、涅槃(ねはん)と呼ばれます。
輪廻する世・六道
初期の仏典では基本的に「天道、人道、畜生道、餓鬼道、地獄道」の五道輪廻が説かれ、中には阿修羅が説かれ、阿修羅は餓鬼もしくは天人に分類されるか一つとされて六道を説いている場合もあり、五道に修羅道が入り六道、六道輪廻と称されるようになりました。
なお、大乗仏教では輪廻思想はより拡大して、六道に声聞・縁覚・菩薩・仏を加えて六道とあわせて十界を説くようになりました。
業の種類 三門の業
三門の業または三業と言って、身体でする行為の身業、言葉でする行為の口業、心でする行為の意業の3種類とされています。
ダンマパダ231
身体がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。身体について慎んでおれ。身体による悪い行いを捨てて、身体において善行を行なえ
ダンマパダ232
ことばがむらむらするのを、まもり落ち着けよ。ことばについて慎んでおれ。ことばによる悪い行いを捨てて、ことばにおいて善行を行なえ
ダンマパダ233
心がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。心について慎んでおれ。心による悪い行いを捨てて、心において善行を行なえ
そして、一般的には心で思っても実際にしなければ言わなければよいではないかと考えられることがありますが、仏教ではそうではありません。次のように説かれていて思い、思う心が重視されます。
アングッタラ・ニカーヤ
比丘たちよ、思いこそは業である。人は思ってから、身体で言葉で、心で業をつくる
ステップ1aの講義「仏教とは本来、何」で紹介したブッダの次のことばのように
ダンマパダ1
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う
ダンマパダ2
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う
心のありようが重要です。
業の原理
次のように言われます。
善因善果(ぜんいんぜんか)
悪因悪果(あくいんあくか)
自因自果(じいんじか)
善または悪の業をつくると、縁起、因果の道理によって、それそうおうの楽または苦の報い(果報)が生じる、善い行為は善い業=カルマとなり善い転生をもたらし、悪い行為は悪い業=カルマとなり悪い転生をもたらすとされています。
そして、自分のつくった業の報いは自分が受けなければならないとされ「自業自得」と言います。
サンユッタ・ニカーヤ
人は種を蒔くだけの業を刈り取る。善を行う者は善を得、悪業を行う者は悪を得る
業の理解の注意
人のことについて「あの人は自業自得だ」とのように考えたり発言することはいけません。
そういうことは悪い業です。他者の心は知り切れないですし、業の縁起は単純な一つの業に対して確定した果という直線的なものではないですし、仏教・仏道は自分自身の回心・変化のためのものです。
また、業は宿命論、宿命的なものではありませんがそのようにカン違いすることがあります。
今の苦楽は全て先の業によるもの、決定したものと見なすのは間違いです。縁起として常に今ここで先の業と今ここの因縁が関係しあっています。
業の理解の目的・価値
今の苦楽は全て先の業によるもの、決定したものと見なすと、今ここ、これからなすべきことはない、直すべきこと、精進すべきはないということになってしまいます。それではいけません。
業の果のありようも縁起によることと理解し、たとえ過去に悪い業をなしたとしても、それからあとに努めて善き心を育てて善き業をなすようにしていることで、それが今ここで現れる過去の業の果に因縁として働き果の現われかたが悪果とはならないようにすることが可能になります。
縁起、業の理解によって、将来をよくするために、今ここ、現世で善き業をつくるように努めることができます。また、改善の方法を求めるために自分の過去の因縁、業に注目して自分を理解して、今ここ現在の自分の状況を縁起として知り改善を図れます。