しっかりと効果・成果を得るためには、集中の瞑想と気づきの瞑想それぞれを、その効果・成果を得られるやり方で違うように取組む必要があります。特に次の点に注意が必要です。
集中の瞑想と気づきの瞑想では「集中」の種類が違う
近年のマインドフルネスは「今ここに集中」「注意集中」などのように定義・解釈されている傾向があり、瞑想のやり方は集中の瞑想的で、気づきの瞑想も集中の瞑想的なやり方の取組みになっている傾向があります。しかし、それではマインドフルネスの「気づき」の力と習性はあまりつきません。
マインドフルネスの本来の効果・成果を得るためには、集中の瞑想のサマタ瞑想と気づきの瞑想のヴィパッサナー瞑想のやり方をはっきりと違うようにすることが大事です。
集中の瞑想のサマタ瞑想の集中は、ある程度の時間を集中する集中。「今ここ」という場合の「今」は何かをしている間の今という意味合いで、ある程度の時間、集中を持続することです。
集中の瞑想のサマタ瞑想はフォーカス・アテンション型の瞑想と言われ、一つのものやことに瞑想中に集中し続けて、この集中の力がつくようにします。
いっぽう気づきの瞑想のヴィパッサナー瞑想は、オープン・モニタリング型の瞑想と言われ、日常の中で瞬間瞬間に現れる自分の心や体の現象に気づけ自覚できるようになるための瞑想で、必要な力、開発すべき力は瞬間瞬間についてのものです。
集中の力も、気づきの瞑想のヴィパッサナー瞑想で開発すべきなのは、瞬間瞬間に現れる自分の心や体の現象に気づく瞬間瞬間における瞬間定(または刹那定)と言われる集中の力です。
集中の瞑想のサマタ瞑想のように一つのことに集中することを続けるやり方をすると、瞬間瞬間の気づきが十分にできず、瞬間定の集中の力も気づきの力と習性も開発できません。
気づきの瞑想は意図的に注意集中しない
また、近年のマインドフルネス瞑想は「意図的に注意集中して」とも説明されていますが、日常生活で自分の心や体に現れる現象は、ひじょうに多く次々次々にあります。それに一つ一つ意図的に注意集中することが必要だったら間に合うでしょうか。間に合いません。
ですから
本来のマインドフルネス瞑想の気づきの瞑想のヴィパッサナー瞑想は、意図的に注意集中してというより、自分の心や体に現れてきた現象に現れた瞬間瞬間にただ気づくことをただ繰り返して、日常で意図しなくても自然にそうするようになる力と習性を開発します。
たとえば、気づきの瞑想のヴィパッサナー瞑想の坐る瞑想では、呼吸に伴う腹部の動き、歩く瞑想では足への気づきを瞑想中の錨(いかり)とするので、それらに注意を向けて気づきますが、それも意識を強めず自然に気づくことがよいですし、それ以外に心や体の現象が現れたら、ただ気づくことが大事な取組みです。
気づきの瞑想は注意して対象をしっかり把握しない
近年のマインドフルネス瞑想は、何かの対象を意図的にしっかり、見たり聞いたり、嗅いだり味わったり、触れたりして、その対象や対象によって起きた自分の感覚を把握することをしますが、本来のマインドフルネスの気づきの瞑想のヴィパッサナー瞑想はそうはしません。
例えば、食べる瞑想では、例えばブドウを使う場合、次の違いがあります。

近年のマインドフルネスの食べる瞑想は
注意集中して、ブドウをじっくりと見て、じっくりと手で触れて口に含んで触れて、ブドウの形や感触を把握する、じっくりと味わうようにしてブドウの味を把握するというようにします。そして、ブドウのことがよくわかった、ブドウの本当の味がわかったと言ったりします。
本来のマインドフルネスの気づきの瞑想の食べる瞑想は
ブドウにではなく、ブドウを見ている自分、触れている自分、口に含む自分、噛んでいる自分に気づくようにします。感触や感覚の認識を求めることはしません。もし自然に硬いや柔らかいや甘いなどの認識が心に現れてきたなら、その自分の心の現象にただそのまま気づくだけです。
マインドフルネスとは自分に気づく、気づいている力・習性です。気づくのは対象にではなく自分にです。また、自然に現れてくることを気づくことによってこそ本質から変れるという得られる効果があります。ですから、本来のマインドフルネス瞑想の気づきの瞑想の食べる瞑想はこのようにします。
このやり方の取組みを繰り返していくと、味がないという体験をする場合もありますが、見えている形状や感じている感触や感じている味は、その対象そのものではなくて自分がその時その時につくり出している心の現象だと知り理解し悟ります。
同じ自分でも、以前は嫌いだった食べ物や人などを好きになったりします、逆もあります。全て物事について、私たちはそれぞれその時その時に快・不快の反応、評価や判断などの心の現象をつくっています。このことをわかり悟ることが、それにとらわれない自分をつくり上げます。
ですから
本来のマインドフルネス・正念は
ブドウは…、対象は…ではなく、(自分は今)している、見ている、感じている、思っているというように自分に気づくようになることが大事で、気づきの瞑想のヴィパッサナー瞑想はそのための力と習性がつくやり方をします。
また「現在の自分」を浄化、クリアにするものです。ですから、意図的に対象や対象について生じる現在の自分の感覚をはっきりつかもうというやり方はしません。
常に自分の心と体の現象に客観的に気づく
マインドフルネスの「ありのまま気づく」とは、自分の心と体の現象に客観的に気づくことです。
本来のマインドフルネスは、例えば
- 「ブドウが甘い」ではなくて「(自分に)甘さという心の現象が現れている」
- 足の痛みは「足が痛い」ではなくて「(自分に)痛みという心の現象が現れている」
- 不安は「私は不安」ではなくて「(自分に)不安の心の現象が現れている」
- 足が動かしているとき「(自分に)足の動きの現象が現れている。足を動かす心の現象が現れている」
というような気づきをするようになります。
ですから、本来のマインドフルネス瞑想の気づきの瞑想のヴィパッサナー瞑想は、このように気づくようになる力と習性をつけるやり方をします。
本来のマインドフルネスの気づきの瞑想のヴィパッサナー瞑想は、対象は…ではなくて、自分の心と体の現象をただありのまま客観的に気づくことを繰り返します。そうして、普段も自分の心や体に現れる現象にただありのまま客観的に気づく力と習性がつきます。
本来、マインドフルネスとは、いつも自分が自分を把握していて自分の主人になっている状態です。それには、自分に気づく力と習性が必要です。ですから、気づきの瞑想の方法は、自分の心と体の現象に客観的に気づく力と習性がしっかりとつくやり方をします。
例えば、「自分は不安」ととらえてしまうのは、心の現象としてではなく、自分と不安を同化した認識になります。すると、自分という存在はそうなんだというように、不安にとらわれるようになります。
不安という感情の認識もその時々の自分の心がつくっている現象です。「自分」ではありません。心の現象も体の現象も、変わります、消えます。つまり、それらは固定的なものではなく実体でもありません。だから変わらないものとしてとらわれるべきものではありません。
本来のマインドフルネスの気づきの瞑想のヴィパッサナー瞑想は、自分の心と体の現象に客観的に気づくことを繰り返すことで、このことも悟り、変わらないというとらわれにしばられることなく、自由な心でいられる人にもなるものです。