前ページの講義で、原点の本来のマインドフルネス瞑想は、仏教のヴィパッサナー瞑想とサマタ瞑想と学びました。
近年の西洋型のマインドフルネス瞑想は、カバットジン教授が仏教の坐禅とヴィパッサナー瞑想を、ストレス緩和のためなどに加工したものが最初と学びました。
いずれも仏教が関連しています。では、マインドフルネス瞑想は宗教的なものなのか? いいえ、原点の本来の仏教のマインドフルネス瞑想も「仏教の」ですが宗教性はありません。
ですから、原点の本来のマインドフルネス瞑想のこのコースは、無宗教の人、キリスト教やヒンドゥー教などを信じている人もたくさん受講しています。
近年の西洋型のマインドフルネス瞑想と宗教
ジョン・カバットジン教授の著書『マインドフルネスストレス低減法』(北大路書房刊)には次のように書かれています。
マインドフルネス瞑想法は、注意集中力を高めるためのトレーニングを体系的に組み立てたものです。これはアジアの仏教にルーツをもつ瞑想の一つの形式を基本としています。
しかし、マインドフルネスストレス低減法を広めるにあたって、カバットジン教授は宗教色を排除したと言われています。アメリカはキリスト教信者の多い国ですし、医療クリニックのために開発したものが宗教のもの・仏教のものと思われると敬遠されてしまうでしょう。
そして、このことから「マインドフルネス瞑想は仏教の瞑想から宗教色を排除したもの」と説明されていることがありますが、近年の西洋型のマインドフルネス瞑想の取組みには宗教的なこと、何かを信仰するような面はありません。
原点の仏教の本来のマインドフルネス瞑想も無宗教
前のページの講義でお話ししましたが、釈迦が亡くなってからの仏教の伝達によって、チベットや中国、韓国、日本などに伝わったルートの北伝(ほくでん)仏教と、スリランカやミャンマー、タイなど南へ伝わったルートの南伝(なんでん)仏教があります。
南伝仏教は、上座部仏教で、上座部仏教が保持し重視してきた仏典から「正念(しょうねん)」がマインドフルネスと英訳されて、正念・マインドフルネスの瞑想のヴィパッサナー瞑想やサマタ瞑想も上座部仏教が実践してきました。
上座部仏教は「仏教は心の科学」と言う
日本は北伝仏教で、北伝仏教は様々な仏様や如来や菩薩がいて、それらを「信仰」して崇拝しますから、日本で「仏教は心の科学」と言うと反発されることがあります。
でも、上座部仏教の僧は「仏教は心の科学」と言います。仏教は宗教ではないと。
信仰して崇拝する仏教の宗派も素晴らしいです。ただ、本来のマインドフルネスの正念、本来のマインドフルネス瞑想のヴィパッサナー瞑想の上座部仏教は信仰して崇拝するということがありません。
開祖の釈迦(しゃか)のことも真理を覚り説き広めてくださったとして尊敬し感謝し手本とします。
なお、日本の仏教の中でも禅宗は「信仰して崇拝する」宗教とは違います。そのため「禅は宗教ではない」と説く僧もいます。私は禅僧として修行もしましたが、私もそう思います。
根本の仏教は、宗教色はなかった
釈迦が生きていた頃、インドは今のヒンドゥー教の前身のバラモン教が中心。バラモン教は人間の通常の知覚を超え出た世界、霊的なことについての面が多く神への信仰のものでした。
釈迦はそういう状況の中、通常に知覚できる物質世界の現実において、苦悩から解放され安楽にいる人にまずなることが大事とされ、そのための理論や方法を覚(さと)り、それを説いていました。
根本の仏教は、現実をそのようにいられる人になるための現実的・合理的な理論やメソッドでした。
根本の原点の仏教は『心』がテーマ
もっとも古い仏典の一つ『ダンマパダ』は、釈迦の言葉が句として収められ、最初の2句は次です。(『ブッダの真理のことば、感興のことば』中村元訳・岩波書店刊より転載)
ものごとは心にもとづき、心を主(あるじ)とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。(ダンマパダ1)
ものごとは心にもとづき、心を(あるじ)主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。(ダンマパダ2)
自分を取り巻くものごとは、心にもとづき【心を主とし】心によってつくり出される。ものごとが先、ではなくて心にもとづいている。苦しみ・福楽は汚れた心か清らかな心かによる、心しだい。
これは、釈迦の教え・仏教の重要なポイントです。
そして、仏教は「心を整え、清らかな心の主として暮らせるようになって、苦しみから解放され、福楽に暮らす人になる」ためのものです。原点の本来のマインドフルネス瞑想はそのためのものです。
ですから、本来のマインドフルネス瞑想は、信仰・崇拝など宗教的なことはなく、必要ありません。