参考

持つべき善友とは

ブッダは弟子に、仏教の修行は善友、善き友を持つことがひじょうに大事と説いていました。修習・修行が成就するかどうかのほとんどはそれにかかっていると。

関わる人を選べということではない

まず、ブッダが善友が大事と言ったということから、関わる人、関わらない人を選べと説明しているのを見聞きしますが、それは違います。善友は修習・修行のための同伴者としてということであって、それ以外で関わる人を選別するということではありません。

ブッダは、老若男女、地位、立場、知力、財産などの違いで人を遠ざけることなく人々と接して遊行されていました。日本の仏教でも昔の高僧は、橋の下などに今でいうホームレスと共に暮らすことをあえてしました。

仏教で重要な慈悲(四無量心)は人を分けへだてして付きあうことではありません。

もし日常で善友かどうかで人を選んで付きあうかどうかを決めると表現したら、それは間違いですし、自分の好悪にとらわれている場合が少なくないはずです。

もちろん自分の身を護るためには付きあう人を選ぶ必要がある場合もありますが、そのことに善友を出してくるのはおかしなことです。

善友とはどんな人

善友は、一般的なただ良い友人、仲良くできる人を意味するのではなくて、教えてくれたり、アドバイスや説得をしてくれたり、助けて、道を示してくれたり、正しい修習の道を進ませてくれる人を意味します。例えば自分がすんなりとは受け入れられないことも指摘してくれる人です。

一般に友とする場合は、居心地がいい、快や楽という面に惹かれると思いますが、仏教のいう善友はそれよりも深い意味があります。

居心地がいい、快、楽で選ぶのは現在の自分のフィルター、感受の反応・判断で選ぶことになるので、今の自分を変える、自己変容・自己浄化からすると問題があるとも言えます。

ブッダは、次の7つを持つ人は追い払われても近くに坐り付きあうべき、交際すべき友と説きました。ブッダが言った善友は、八正道を修習し成就するために善き同伴者という意味があります。

  1. 愛想があって可愛い
  2. 尊敬できる
  3. 称嘆される
  4. 話しかたを心得ている
  5. 忍耐強く聴く
  6. 意味・境地などが深遠なことを話す
  7. 道理から外れることに引き込まない